宗祖親鸞聖人

親鸞聖人は鎌倉時代初期の僧で浄土真宗の開祖です。貴族の子に生まれ9歳のとき延暦寺に入って天台宗を学び、後に法然に就いて浄土宗を修めました。しかし、この新仏教は旧仏教から弾圧され、1207年に師である法然(讃岐国へ配流)とともに越後国(新潟県)に配流されました。許された後は関東地方で布教し、浄土真宗を開きました。

親鸞聖人の生涯

承安3年(1173年)4月1日、父・藤原有範(ふじわらありのり)母・吉光女(きっこうにょ)の長男として生まれる。幼名「松若麿」「若松丸」。

4歳で父、8歳で母を亡くす。

治承5年(1181年)9歳の時「青蓮院(しょうれんいん)」にて叔父の日野範綱(ひののりつな)卿に伴われて出家得度(比叡山天台宗の僧侶)する。
この時の得度に際して、慈円和尚が「夜も遅いので式を明日に延期しよう」と話された時に「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と句を詠んで、その日のうちに得度されたことは有名な逸話である。

この後比叡山延暦寺に入り10年もの間修行を行うが、求めるものに出遭えず、叡福寺の聖徳太子御廟に行くと、救世菩薩の化身が現れ「余命10年」と告げられ、その後、名を「範宴(はんねん)」と改め更に修行に没頭する。

建仁元年(1201年)の春、天台・法華の教えに絶望し29歳で山を降り、六角堂(聖徳太子建立)に百日参籠する。その95日目に聖徳太子が夢に現れ「吉水の法然の法を聞け」と、夢告を受ける。
それを受け聖人は、夜明けに法然上人に会い教えを受けるために上人を訪ね修行に励み、それが認められ「綽空(しゃっくう)」という名をいただき更なる修行に励むこととなる。

法然上人と出遭った後は考えが大きく変わり、次のように著している。
浄土高僧和讃(源空讃第2首)中:「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう」
浄土高僧和讃(源空讃第4首)中:「本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」

元久2年(1205年年)法然上人から認められ、「選択本願念仏集」の書写を許される。
これは門弟として高い評価を得たもので、許された者は数少ないといわれる。
法然上人に「善信(ぜんしん)」と名のることを許される。

建永2年(1207年)2月、法然及び親鸞、僧籍を剥奪され流罪に処せられる。
法然は「藤井元彦」の名で土佐国番田へ、親鸞は「藤井善信(よしざね)」の名で越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流。
この頃、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名のり、非僧非俗(ひそうひぞく=僧侶でもなく俗人でもない)の生活をする。

建暦元年(1211年)11月17日、赦免の宣旨が下される

建保2年(1214年)関東での布教のため、家族と共に越後から常陸国(現在の茨城県下妻市)の「小島の草庵」に移り住む。
建保4年(1216年)「大山の草庵」(現在の茨城県城里町)に移り住む。
さらに、稲田頼重(笠間郡稲田郷領主)の招きで吹雪谷の地に移り布教活動に専念する。この時、教行信証を書き始める(完成=寛元5年(1247年))

弘長2年(1262年 )11月28日 善法院 にて入滅、享年90歳。

註:画像左上にある「見真大師(けんしんだいし)」とは、親鸞聖人に明治9年明治天皇から贈られた諡号(しごう)で、「大師」とは、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種である。

このページのトップへ